日産を進化させ首を絞めることになる901運動の末路

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日産が行った901運動。
素晴らしい車を生み出し続けた一方、完全に時期を見失い、降下して行く景気に対して対応することができなかったのです。
その結果、日産自動車という会社をどん底にまで突き落とすことになります。

野心あふれる901運動

901運動とは、1990年代に世界で1番になろうという野心の現れたものでした。
1980年代を見てみると、日産自動車の販売シェアはどんどんと落ちていくのです。
それもバブルの時期なのにもかかわらず、日産車は売れなくなってしまいます。
そこで、性能向上を目指し、901運動を立ち上げていくのです。

901運動は、全車種を対象に、シャシーから見なおしをかけ、エンジンやハンドリング、サスペンションなどを含めて品質向上のための技術革新をしようというものでした。
確かに、Y31やY32のセドリック・グロリアやA31セフィーロ、R32スカイラインなど素晴らしい車を生み出していきます。
ATTESAシステムやHICASなどもこの901運動の結果で生まれてきたのです。
RB26DETTなど名機も誕生し、日産のブランドイメージは一気に向上したといえるでしょう。
しかし、これが経営とはリンクしていなかったことが問題だったのです。

景気動向の判断の失敗

時代は1990年代後半に入り、バブル景気がおかしくなっていきます。
バブル崩壊ですが、この結果、販売台数は一気に高架線をたどるのです。
901運動によって、車は高機能になりましたが、その分だけ膨大なコストがかかりました。
それを取り返すためには、車を売らなければいけませんが、すでにどの車も高額な設定にしなければ取り戻すことができなくなって行っていたのです。
環境対策ということも行わなければならず、コスト削減をしたくても901運動がすべての足を引っ張ることになるという、皮肉な結果が待っていました。

すでにかけたコストは取り戻すことができず、さらにコストカットするために開発をしなければいけないのは、悪循環となり首を閉めます。
ですが、901運動という存在が積極的にコストカットを進めることをできないようにしてしまったのです。
良い車を作れば売れるかもしれませんが、時代の要求を無視すれば首を絞めるという点系であったといっていいでしょう。
結果として、先を読むこともできずに始めた901運動は、日産を倒産寸前まで追い込むのです。

足かせとしかならなくなった901運動

901.運動以降の日産は、迷走を続けます。
どう見ても売れないようなフォルムの車を作り、崩壊を加速させるのです。
結果として、ルノーとの資本提携を結び、傘下にはいることで経営の立て直しを図っていくことになります。
当時は、これで日産は終わったといわれたのです。
ですが、日産にやってきたカルロス・ゴーンは、見事に日産を立て直していきます。
その代りに、数多くの車がコストカットの名目で廃止され、統合されていくことになるのです。
本来は、日産自ら行わなければいけなかったことも、理想だけを追い求めた901運動という言葉が足かせになったといってもいいでしょう。

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カルロス・ゴーンがOKを出したZ33フェアレディZと数奇なつながり

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倒産寸前の状況からやっと抜け出し、光が見えてきた日産。
2000年にカルロス・ゴーンがルノーからやってきたことで、経営を再建させていくことになるのです。
その中で、開発も販売も停止されていたフェアレディZは、停止した2000年から実は開発されていきます。
2年のブランクを開け、Z33が登場するのです。

日産の再建とコストキラー

カルロス・ゴーンという経営者は、ルノーにおけるポジションを維持しつつ日産にやってきました。
コストキラーとも言われ、再建のために様々なコストを削減させ、見事に日産を復活させていくのです。
その中で、排ガス規制の問題もあり先に進まずに休止していたフェアレディZを復活させます。
カルロス・ゴーンは、フェアレディZほどの車を廃止するべきではなく、もっと進化させて販売するべきだと考えていたのです。
彼は、コストキラーやコストカッターと呼ばれるほど合理主義の人ではありますが、それ以上に自動車好きだといえます。
もっとかっこいいフェアレディZを登場させると公言し続け、2002年にZ33が登場するのです。

カルロス・ゴーンの愛したフェアレディZ

この背景には、カルロス・ゴーンが、フェアレディZを愛していたということがありますが、あまり知られていないことでしょう。
まだミシュランにいた時代、彼の愛車はフェアレディZだったのです。
そして、開発をした日産の片山豊を敬愛していたのですから、どうしてもフェアレディZをなくしたくなかったともいえるでしょう。
スポーツカーの歴史の中で、価値観というものを変えた存在であるフェアレディZは、復活させなければいけなかったとわかっていたのです。
結果として、片山豊と話し合いの場を持ち、のちに相談役として復帰させていくのですから、偏愛といってもいいでしょう。

大人のための車として

Z33は、ボディも大きく高級志向のスポーツカーとなりました。
それまでの日産のボディの拡大政策とは異なり、原点回帰を目指した車として出来上がっていったのです。
それも2シーター専用であり、座っただけでドライブの楽しい映像を見ることができる。
そんな車を目指したといっていいでしょう。
大人のための車なのであり、独自の世界観を持った車として生まれて、他に比肩する車は存在しない優雅な車となったのです。

競争し続けてきた、GT-Rとも全く別の路線を歩むこともできるようになりました。
ダットサンが作り上げ、日産の看板として改めてフェアレディZは大きく羽ばたいたといっていいでしょう。

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Z32型の進化と日産の経営崩壊

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フェアレディZは、1989年に4代目となります。
拡大路線はさらに広がり、完璧なパフォーマンスを求めて、最上級の性能を与えようと考えるのです。
しかし、時代はバブルの絶頂期から崩壊へ向かうときであり、10年以上モデルチェンジもされずに据え置かれることにもなります。
それだけよくできていたといえるかもしれませんが、日産の低迷期を見事に表すことになるのです。

フェアレディZの進化と放棄

Z32型は、Z31型を進化させることで作られました。
S30からS31のような正常進化という形ではなく、さらに高性能なスーパーカーを目指していたといえばいいでしょう。
あまりに空力に特化していたことから、極端な流線型ボディを持っており、非常に高い存在感を示したのです。

ただし、それまで作り上げてきたロングノーズでショートデッキを放棄し、ワイド&ローにシフトしました。
この形状からも、黒のZ32型は、ゴキブリZなどまで言われるほど、地面に吸い付いているように見えたのです。

整備性の問題からの巨大化

この背景には、エンジンルームの問題がありました。
巨大なエンジンを搭載するフェアレディZには、あまりにもエンジンルームの容量が少なく、整備性が異常に悪かったのです。
そこで、流線型のボディを与えることによって、ボンネットを高くしつつも、全体は低く見せるようにした形状を作り上げました。
このことから、Z32型は3ナンバーボディにもなり、フェアレディZを捨てたともいわれたのです。

この巨大なボディを走らせるために、高出力化されたVG30DEとツインターボのVG30DETTが搭載されたのです。
特にVG30DETTは、日本車で初めて280psを達成します。
これだけのパワーを支えるため、R32の電子制御式4WSも搭載させコントロール性を向上させたのです。

日産の経営危機とZ32型の行く末

Z32型は確かによくできた車でした。
しかし、こんな大きな車を維持できるような時代ではなくなっていたのです。
日本の経済は、バブルの崩壊に見舞われ、だれも購入することも維持することも考えない時代へと変わってきていました。

901活動の失敗もあり、経営危機を迎えていた日産は、モデルチェンジも進めることができず、Z32型をそのままの状態で販売するのがやっとだったのです。
特にセフィーロやエルグランド、マーチなどがやっとの思いで支えていた状況で、売れることもなくなってきたZ32型は、捨て去られた存在であったともいえるでしょう。
その結果、倒産寸前の状態でルノーの傘下になってから、2000年にZ32型は生産終了し、絶版車種となっていくのです。

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フェアレディZの正常進化のS130と拡大進化のZ31

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フェアレディZは、10年の生産を経て、S130にフルモデルチェンジします。
西部警察に使われていたスーパーZは、このS130なのです。
それだけ印象に残る車ではありますが、一般的には影の薄い車と呼ばれています。

高性能なのにもかかわらず影が薄いと称されたしまったS130

S130は、1978年から生産が始まりました。
時代的にスーパーカーブームであり、国産初のTバールーフを採用するなど、実は大ヒットした車なのです。
しかし、影が薄いと呼ばれたのにはわけがあります。

S130は、S30の正常進化の先にありました。
正常進化とは聞こえがいいものの、新機軸を投入するのではく、エンジンもL型を改良し搭載、ボディも拡大させる形をとったのです。
それだけS30がよくできていたことは確かですが、それ以上に目新しいものがなく、影が薄いといわています。
それでも、2.8リッターエンジンを搭載したモデルが生産されることとなり、1982年にはターボモデルまで販売されるのです。
とくにアメリカでは大きな人気になっていきました。

Z31が目指した比肩できない車へとの進化

1983年、Z31型が登場します。
大きくモデルチェンジされ、ここにきて比べるものがない車として進化するのです。
空力が重視されるようになり、設計段階にいかされるようになりました。

ハイパフォーマンスを目指すことを命題として作られたZ31は、L型エンジンも見なおし、V型6気筒エンジンに乗せ変わります。
全グレードターボエンジンとなり、のちに直列6気筒も登場しますが、これもターボを搭載させるのです。
当時の性能から考えると、トップレベルの出力を誇り、空力も優れていたことから、250km/hを記録するまで至るのです。
最終型には自然吸気のZRが登場しますが、かなりマニアックな車となりました。

サスペンションには、3段階の切り替えが可能なものが搭載され、外観にはパラレルアイズアップヘッドランプが搭載されたところは驚きでしょう。
リトラクタブルヘッドライトに似ていますが、ランプ自体が上下するところが特徴です。

日産が求めていった車の進化の将来

ロングノーズでショートデッキなフェアレディZは、このまま継承されていくことになります。
しかし、自動車業界にかかる圧力と失敗が待ち構えていたことはこの時知る由もありません。
結果として、巨大化して行く車は、やがて恐竜が滅びたかのように駆逐されていくことになるのです。
どんどんと廃止になっていったりする中、フェアレディZは生き残りをかけていくことになります。

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世界中のスポーツカーに喧嘩を売ったフェアレディZの誕生

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日産の中でいろいろな車が変わって行く中、フェアレディZだけは廃止されることも、名前がなくなることもなくきています。
一時期、フェアレディZは生産が停止されたこともありましたが、2年で復活しているのです。
カルロス・ゴーンが社長になったことで消えてしまうのではないかと危惧されていたことだったのですが、絶対になくさないとまで明言した車でもあり、見事に生産を再開したといっていいでしょう。

魅力的な車を目指したフェアレディZ

初代フェアレディZであるS30型は1969年に生まれました。
ヨーロッパの高級GTにも負けない魅力的なスタイルと性能を目指したのです。

世界中で大ヒットを記録することとなりますが、およそ10年間で約55万台という当時では驚くべき数を生産・販売します。
世界一売れたスポーツカーと称されるようにもなり、名実ともに名車となったといっていいでしょう。
直接的に目標としていた、ポルシェ911やジャガーEタイプに対して高性能且つ安価なクルマづくりがコンセプトだったことから、世界の日本車の対するイメージを変えることができたのです。
ミュージカル「マイ・フェア・レディ」からとられた名前は、それ以上に美しく世界で花開いたといってもいいでしょう。

どんなものでも2流だった時代

それまでの日本車は、どんな車を作っても2流の車と呼ばれていました。
ひどい話、ペットのおもちゃともいわれるほどだったのです。
高速走行など考えて作られていなかったため、エンジンは故障しやすく、オーバーヒート連発するような出来のものしか作ることができませんでした。
寒冷地での使用も考慮されておらず、冬場はエンジンにお湯でも掛けなければかからなかったレベルなのですから、当然競争にはなっていなかったのです。

整備性の高さまで1流だった

性能を見てみると、実に優れていたことがわかります。
軽量のモノコックボディを採用し、サスペンスは前後ともにストラット式の4輪独立懸架と当時の限界レベルの技術を投入。
エンジンは、今でも名機といわれる2.0リッターL型6気筒SOHCエンジンで、当時最先端の技術だったのです。
それも手堅い選択であり、信頼性という面でも優れた組み合わせをしたといっていいでしょう。

ちゃんと北米には、2.4リッターエンジンを投入して、ビッグパワーエンジンに対抗できるようにしました。
高性能でも複雑怪奇なジャガーやポルシェに対して、整備性の高さの優位性もあったのです。

初代フェアレディZは、本当に優れた車であり、日本のスポーツカーの幕を開けたといっていいでしょう。

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