市場をけん引したエルグランドと燃費競争の失敗

2-15

日産の経営が悪化しはじめていた頃、時代はミニバンへと移り変わり始めていました。
ホンダのオデッセイのヒットから、市場の要求が変化して来ていたのです。
そこで、日産は最上級車種として、エルグランドを投入して行くことになります。

大型ミニバンをけん引するエルグランド

日産としては、ワンボックス型の大型ミニバンで競争力がなく、ホンダのミニバンに対して優位性がありませんでした。
そこで、最上級なミニバンで3rdシートも使える車として、エルグランドを作り上げます。
座席に座る人は、みな満足できる出来上がりであり、非常に高性能なミニバンとして完成することとなって大人気になるのです。
ちょうど日産の経営が傾いていた時期であり、このエルグランドも日産を支えた名車といっていいでしょう。
時代的にも、ベンチャー企業の社長などが取り上げられるなど、格差が目立つじきで、こうした車がもてはやされることとなるのです。

確かに高性能であったことは確かで、2002年のモデルチェンジで2代目になっても、高い人気を続けることができました。
街を走る大型ミニバンといえば、どれもエルグランドだったといってもいいほど、好調なセールスを見せるのです。

トヨタの包囲網と日産の苦悩

問題はすぐにやってきました。
もともとこのクラスに強いトヨタは、若者をターゲットにしたベルファイアを大型ミニバンとして投入します。
その反面で、大人の雰囲気を漂わせるバージョン違いのアルファードも投入するのです。
さらに、もっと若い世代には、ヴォクシーのような一回り小さいミニバンも投入することで、エルグランドをあっという間に包囲します。

当時の日産で考えれば、そんな大きな展開はできません。
カルロス・ゴーンのもとで、リバイバルプランの真っただ中だった日産は、余計な経費を打ち出すことができず、結果としてエルグランドも失速して行くことになるのです。
それでも、質の高いエルグランドは、一部のユーザーに支持され、3代目も出来上がっていきます。

ハイブリッドカーの設定のないエルグランド

エルグランドの最大の問題は、質や室内の性能にあったわけではありません。
他の大型ミニバンには負けない質を持っており、最上級の仕上がりであることはまちがいのないことなのです。
しかし、時代は節約志向だったのであり、こうした大型ミニバンは、生活に大きな負担を強いるものでした。
低燃費が当たり前の時代でもあるなか、リッター5km程度しか走ることができないエルグランドは、維持することも難しい車となってしまっていたのです。

トヨタを含め、どんどんハイブリッドカーを投入する中、エルグランドの大きなボディを引っ張るハイブリッドカーを作ることができなかったのは大きなポイントでしょう。
ハイブリッドカーを投入することとなるセレナの好調なセールスもエルグランドに影響したことも確かです。

現在では、エルグランドはほとんど見かけない大型ミニバンとなりました。
それだけ他社が魅力的であり、日産自体もそこまでテコ入れしていない車となってしまったのは、残念な結果であるともいえるでしょう。

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日産リバイバルプランの功労者といえるモコと三菱自動車の燃費偽装問題

2-14

日産には、長年軽自動車はありませんでした。
自動車メーカーとして、トヨタとともに販売していなかったメーカーだったのです。
しかし、時代はコンパクトで経済性の優れた軽自動車を求めるようになってきました。
そこで、自社開発のノウハウがない日産は、OEMの形を追い求めます。

日産自動車初の軽自動車

軽自動車のノウハウといえば、やはりスズキとダイハツにかなうものはありません。
それだけの販売実績を持ち、開発能力を持っていたことから、日産は関係性のあったスズキとのOEMを模索します。
日産リバイバルプランの一つであり、のちの大問題を抱えることになる三菱自動車との連携にもつながっていくことになるのです。

OEMを受けるターゲットになったのが、MRワゴンでした。
大人気のトールワゴンであり、これをモコとして販売を開始するのです。
細かな違いはあったものの、歴代のモコは基本的にMRワゴンと変わらない性能を持っていました。
その中で大きな違いは、日産の安全基準で全車ABSを搭載しているということでしょう。
MRワゴンはオプションだったABSはモコには全グレード搭載されることとなるのです。

大ヒットを記録する2代目

日産初の軽自動車モコは、驚くほどのヒットになります。
差別化を進めたこともありますが、販売網の大きさの違いからMRワゴンを圧倒的に追い越した販売台数を記録するのです。
2002という、日産の転換期において、ここまでの販売台数を記録するとはだれも予想しなかったことでしょう。
日産のリバイバルプランを支えた名車となったモコは、マイナーチェンジをしつつ、2006のMRワゴンのモデルチェンジとともに、2代目にバトンタッチします。

2代目モコは、驚くことに、さらに大ヒットを記録するのです。
小さな差別化はあったものの、かわいらしいボディ形状も伴い、女性に高い人気になります。
性能的にも、燃費がよく、走行安定性も高かったことから、これ以上のない成果を上げるのです。

3代目と三菱自動車の燃費偽装のつけ

そして、2011年に3代目に変わります。
MRワゴンに送れてフルモデルチェンジすることとなりますが、今度はヘッドランプ形状に差別化がされて誕生です。
室内が広くなったうえに低燃費を実現しますが、日産はかねてから予定していた三菱との合弁会社に移行するプランを実行し、軽自動車のメインを共同開発したデイズに移します。
ところが、三菱自動車の燃費偽装問題が表面化し、デイズやデイズルークスの販売停止となって、プランは大きく頓挫することとなるのです。
しかし、MRワゴンは2016年で生産を中止することが決まっており、モコも2016年で販売が終了することが決まっています。
ここにきて、またもや日産の先見性の失敗が再燃するかもしれないのです。
危機を作った功労者ともいえるモコの存在を見捨てた罰が当たったともいえるかもしれません。

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R34GT-Rにみる羊の皮をかぶった狼の終焉

2-10

倒産寸前になっていた日産は、スカイラインGT-Rとして最終型を発表します。
スカイラインの伝説の最終章としてふさわしい性能を持って生まれてくるのです。
それも、R33での失敗を踏まえた作りになったからこそ、最上の評価を得たといっていいでしょう。

本当の意味でのGT-R

R34は、日産が最も経営に厳しい1999年という時期に生まれました。
ルノーの傘下となり、コストダウンを図っていかなければいけない時代、最高の走りをもとめてGT-Rは設計されていたのです。

R33では、あまりに巨大化したボディが不評であり、それがマイルドでありながらもGT-Rらしい荒々しさを削り落としてしまっていました。
その失敗を踏まえ、R34ではホイールベースを55mm短くして、全長では75mmもサイズダウンするのです。
これにより、きびきびとしてコーナーリング性能が戻ってきました。
第2世代GT-R最後の型でもあり、ダウンフォースも意識して作られたのです。

さらに、欠点であったブレーキのだれを少なくさせるため、空気をタイヤハウジングに貯める構造となっています。
この結果、風圧によって、ブレーキが冷却できるようにしたのです。

究極のスカイラインGT-Rを目指して

エンジンも、GT-Rとして最後になるRB26DETTが搭載されました。
スペック上は280psですが、実際にはさまざまな方法で抑え込まれており、ちょっとしたチューンで400ps近くまではね上げることができたのです。
それも真紅に塗られたRB26DETTは、とても美しく見えるでしょう。

さらに重量も余計なぜい肉を削られて作られており、ホイール1本当たり1kgも減らしたりしているのです。
もともと重量に問題があり、苦しめられてきたGT-Rとしては、最後にきて解決できるように動いたといっていいでしょう。
究極のスカイラインGT-Rを作りだしたことに間違いはありません。

スカイラインGT-Rの終焉

後期型も販売されましたが、あまり大きな変更は与えられませんでした。
実際に内装は質感を上げたりすることはしたものの、性能的にはほとんど違いはなかったのです。

その中でも、Mスペックだけは別格でしょう。
乗り心地と質感の向上を目指し作られたグレードで、大人のGT-Rとして最後に出したのも、日産が目指した本当のスカイラインGT-Rとしての意地だったのかもしれません。

羊の皮をかぶった狼は、ここで終了します。
GT-Rとして独立した車となっていきますが、初代GT-Rとコンセプトは全く異なるレースカーとなっていくからです。
スカイラインとの別の道をたどった段階で、もうスカイラインGT-Rは終わったといっていいでしょう。

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R33はGT-Rとして失敗した車だったといえるのか

2-9

R32は、大成功をおさめます。
しかし、日産の経営は傾き、取り返しがつかないほど悪化して行くのです。
そんな中、R33が登場することになりますが、さまざまな問題を抱えながら進化させることになります。

優れた車であったはずのR33

R32はとても優れた車であったことは確かです。
売上的にも優れていましたが、スカイラインとしては4ドアが売れなかったことは確かでした。
日産の経営上の問題もあり、何とか売り上げを伸ばすためにもっと広い車を要求したのです。

R32 は、コンパクトなボディにすることで、運動性能を高め、性能アップを目指した車でした。
そのおかげで、室内は驚くほど狭かったのが、売上低下の問題であったことも確かです。
しかし、ここから日産も恐竜の進化のごとく、巨大化させるだけの車づくりに着手することになります。

ひどい評判となっていくR33

R33は、全車3ナンバー化することにより大型化させ、居住性と快適性を求めました。
その中で、2ドアはショートホイルベースにする予定だったのにもかかわらず、同じサイズにしてしまったのです。
みためにもずんぐりしたものとなり、何とも重そうなイメージを作りだしてしまいました。

スペックを見てみると、世界最速の量産車であることは間違いありません。
R32を超えるタイムをたたき出し、確かに性能を引き上げた車でしたが、さらに重量をましたボディは、とても精悍とは言えない姿でした。
結果として、性能は高くても、R33なんざブタのエサとまで言われてしまうのです。

R33は失敗作だったといえるのか

R33はそんなにひどい車であったのかといえば、実際にはそこまでではありません。
非常に高性能な車なのは確かであり、他社の車と比較しても負けません。
曲がらなく止まらない車でもなく、トラクションもしっかりしていたのです。

ところが、日産の公報は、さまざまな方法で売ろうとしました。
中には性能をごまかし、プロドライバーにインプレッションをさせるなどということまでやってのけたのです。
結果として、評判は最悪のものとなり、売れ行きを落としていきます。
本来は素晴らしい車であっても、こうした販売戦略の失敗が評判を落とし、永遠と語り継がれていくことになるのです。
その点で、最もかわいそうなGT-Rとして、R33は記憶されてしまったといえるでしょう。

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日産を進化させ首を絞めることになる901運動の末路

2-5

日産が行った901運動。
素晴らしい車を生み出し続けた一方、完全に時期を見失い、降下して行く景気に対して対応することができなかったのです。
その結果、日産自動車という会社をどん底にまで突き落とすことになります。

野心あふれる901運動

901運動とは、1990年代に世界で1番になろうという野心の現れたものでした。
1980年代を見てみると、日産自動車の販売シェアはどんどんと落ちていくのです。
それもバブルの時期なのにもかかわらず、日産車は売れなくなってしまいます。
そこで、性能向上を目指し、901運動を立ち上げていくのです。

901運動は、全車種を対象に、シャシーから見なおしをかけ、エンジンやハンドリング、サスペンションなどを含めて品質向上のための技術革新をしようというものでした。
確かに、Y31やY32のセドリック・グロリアやA31セフィーロ、R32スカイラインなど素晴らしい車を生み出していきます。
ATTESAシステムやHICASなどもこの901運動の結果で生まれてきたのです。
RB26DETTなど名機も誕生し、日産のブランドイメージは一気に向上したといえるでしょう。
しかし、これが経営とはリンクしていなかったことが問題だったのです。

景気動向の判断の失敗

時代は1990年代後半に入り、バブル景気がおかしくなっていきます。
バブル崩壊ですが、この結果、販売台数は一気に高架線をたどるのです。
901運動によって、車は高機能になりましたが、その分だけ膨大なコストがかかりました。
それを取り返すためには、車を売らなければいけませんが、すでにどの車も高額な設定にしなければ取り戻すことができなくなって行っていたのです。
環境対策ということも行わなければならず、コスト削減をしたくても901運動がすべての足を引っ張ることになるという、皮肉な結果が待っていました。

すでにかけたコストは取り戻すことができず、さらにコストカットするために開発をしなければいけないのは、悪循環となり首を閉めます。
ですが、901運動という存在が積極的にコストカットを進めることをできないようにしてしまったのです。
良い車を作れば売れるかもしれませんが、時代の要求を無視すれば首を絞めるという点系であったといっていいでしょう。
結果として、先を読むこともできずに始めた901運動は、日産を倒産寸前まで追い込むのです。

足かせとしかならなくなった901運動

901.運動以降の日産は、迷走を続けます。
どう見ても売れないようなフォルムの車を作り、崩壊を加速させるのです。
結果として、ルノーとの資本提携を結び、傘下にはいることで経営の立て直しを図っていくことになります。
当時は、これで日産は終わったといわれたのです。
ですが、日産にやってきたカルロス・ゴーンは、見事に日産を立て直していきます。
その代りに、数多くの車がコストカットの名目で廃止され、統合されていくことになるのです。
本来は、日産自ら行わなければいけなかったことも、理想だけを追い求めた901運動という言葉が足かせになったといってもいいでしょう。

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カルロス・ゴーンがOKを出したZ33フェアレディZと数奇なつながり

2-4

倒産寸前の状況からやっと抜け出し、光が見えてきた日産。
2000年にカルロス・ゴーンがルノーからやってきたことで、経営を再建させていくことになるのです。
その中で、開発も販売も停止されていたフェアレディZは、停止した2000年から実は開発されていきます。
2年のブランクを開け、Z33が登場するのです。

日産の再建とコストキラー

カルロス・ゴーンという経営者は、ルノーにおけるポジションを維持しつつ日産にやってきました。
コストキラーとも言われ、再建のために様々なコストを削減させ、見事に日産を復活させていくのです。
その中で、排ガス規制の問題もあり先に進まずに休止していたフェアレディZを復活させます。
カルロス・ゴーンは、フェアレディZほどの車を廃止するべきではなく、もっと進化させて販売するべきだと考えていたのです。
彼は、コストキラーやコストカッターと呼ばれるほど合理主義の人ではありますが、それ以上に自動車好きだといえます。
もっとかっこいいフェアレディZを登場させると公言し続け、2002年にZ33が登場するのです。

カルロス・ゴーンの愛したフェアレディZ

この背景には、カルロス・ゴーンが、フェアレディZを愛していたということがありますが、あまり知られていないことでしょう。
まだミシュランにいた時代、彼の愛車はフェアレディZだったのです。
そして、開発をした日産の片山豊を敬愛していたのですから、どうしてもフェアレディZをなくしたくなかったともいえるでしょう。
スポーツカーの歴史の中で、価値観というものを変えた存在であるフェアレディZは、復活させなければいけなかったとわかっていたのです。
結果として、片山豊と話し合いの場を持ち、のちに相談役として復帰させていくのですから、偏愛といってもいいでしょう。

大人のための車として

Z33は、ボディも大きく高級志向のスポーツカーとなりました。
それまでの日産のボディの拡大政策とは異なり、原点回帰を目指した車として出来上がっていったのです。
それも2シーター専用であり、座っただけでドライブの楽しい映像を見ることができる。
そんな車を目指したといっていいでしょう。
大人のための車なのであり、独自の世界観を持った車として生まれて、他に比肩する車は存在しない優雅な車となったのです。

競争し続けてきた、GT-Rとも全く別の路線を歩むこともできるようになりました。
ダットサンが作り上げ、日産の看板として改めてフェアレディZは大きく羽ばたいたといっていいでしょう。

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